頑張れと言う世界で一番無責任な言葉について

私がこれからここに書くことは、世界で最も捻くれている自信がある。

 

あなたは今まで、他人から頑張れと言われて頑張れたことはあるか?

私は一度もない。ないというか、頑張ろうと思ってもその気持ちはその場で静かに燃えた後、時間を置かずに燃え尽きる。その炎というか、威力が長続きしたことが一度もない。

 

頑張れと言う言葉自体が、と言うよりも、頑張れと言われることによって自分とその周辺に起こる変化が大嫌いだ。頑張れと言われた人間は、その目標を達成するために自分を奮い立たせる必要があるし、その周囲の人間は、目標のために頑張る本人を応援するために、色々とお膳立てしなくてはいけない。

 

頑張れと言う人は無責任でいいよね。言うだけ番長、口だけ番長でも許されるんだから。頑張れと言っておけば、相手がコケた時、「声をかけてやった」と言ういかにもお偉い事実だけ残り、お前は応援してた素晴らしい人間として相手の人生史に名を刻むんだもんね。

 

小さい頃、頑張れと言われたことが癪に障りすぎて、ピアノの発表会でわざと間違いを連発した。私を頑張らせるために一生懸命になっている母親の姿をもう見たくなかったからだ。発表の翌週のレッスンで先生に頑張ったねと褒められた時が一番辛かった。嘘をつかないで欲しかった。叱って欲しかった。

またあるときは、遠泳が嫌すぎて、先生に提出した夏休みの作文の宿題に、「もう他人から頑張れと言われたくない」と書いて提出した。赤の他人であるコーチやヘルプでシフトを入れてくれている大学生の熱い「頑張れ」には乗せられなかった。

 

こう言うことを書いていると、お前は甘いとかダメ人間だとか言われそうだが、自分に甘いのの何が悪いんだね。人間、頑張るときは大抵ちゃんと頑張れている。それは他人に言われてじゃなく、ごく自然に出来ているのだ。だから、もうほっておいてほしい。